かみくだいてみました

こんばんは。
最近シンクロが多くておもしろ〜いな美陽子です。

いよいよ寒くなってきました。
そして風邪をひきました。
寒いのはとても苦手なのですが、この冬の寒さはとても好きです。
(どっちやねん。でもそうなんです。表現が難しい。)

さて、2014年10月、イギリスロンドンで開催されたSpiritual Anatomy®第一回プラクティショナーコースが、私にとって初めてのセミナー参加だったのですが、、、

そのときにmomoyoさんが話されたことの中で、
ずーっとわからなかったんだけど、1年たってわかった!
と思ったものがあります。

その言葉とは。
「全部才能に変わる」

家で食事をしたら、食器の洗い物が出ますよね。
私はいつも、食器の洗い物があると、気になって気になってしょうがなくて、洗っていました。
でも、「なんで私がいつも洗わなきゃいけないの」と思ってイライラしていました。
いつもではないんだけど、イライラしちゃうときは明らかにイライラしていました。
そんなときは食器をガチャガチャ、フライパンをガタンガタンと大きな音を立てて洗っていました。
(いやーね…近づきたくないわね…)

でもある日突然、思いました。
「あれ、洗い物に気づいちゃう私、これって…才能じゃない?

私、きれいにしたいんだって気づいたんです。

気になるから洗い物するんだけど、でもなんで自分がやらなきゃいけないんだ!てイライラしていたのに、
イライラしている理由はみんなやってくれないからだと思っていたのに。

「あ、私、きれいにしたいんだ」て思ったら、イライラしなくなりました。

イライラの理由を外に求めていたし、そうだ!と思い込んでいたんですが、
私がほんとうはどうしたいのかがわかったのでイライラしなくなりました。

私が洗い物をする。
なにも変わっていないのに、とってもハッピーに。
何が変わったかといえば、私自身でした。

よく考えてみると、
逆にみんなが洗い物してくれたらイライラしないかというと、、、
今度は「ちゃんと洗えてるんだろうか」って心配しちゃうんですね。
異様に気になる。
以前洗い物をしている姿を見た時、大雑把な姿をみているからそう思ってしまうんですね。
あれ、ちゃんと洗剤落とせてないんじゃない…!?
見てしまったワンシーン。
つのる不安。

洗ってほしいくせに、洗ってもらうとちゃんと洗えてるか心配になる。
勝手ですね。

今では、洗い物をみつけると、見つけた自分のことを「きゃ♡才能発揮しちゃった♡」なんて思って洗い物をしています。
それはそれはもう、ずいぶん楽になりました。

イライラして、だからといってそのまま洗い物をせずに放っておけば楽かというと、それも違う。
じゃあ、「なんで私ばっかり洗わなかんの!」とは言ったら楽かというとそれも違う。
それを言ってハッピーな気持ちになるなら言いたいけれど、私の中にある傷ついた自分がも〜騒いで騒いでとても言えたもんじゃありません。

「気持ちをわかってもらえない」っていう自分がいるんですね、私の中にね。
それがイライラ〜としたときにはムクムクと上がってきます。
だから戦いが起こっています。それが思考と結びつくとものすごくすごく厄介な事になります。
自分で収拾がつけられない。

でも、ちゃんと付けられるようになりました。

基準は、自分が一番気持ちがいいこと。

自分が心地よい環境をつくること。

一番は、内側の環境を整える事。

ちゃんと自分の気持ちをみてあげること。

今となっては、「全部才能に変わる」の前後関係が思い出せないので真意とは違うかもしれませんが、「あれ、これって才能かも!」と思った瞬間、自分のなかでピターッとはまったので、お話してみました。

私だから感じる事。
私はそれを、以前とは比べものにならないくらい愛しています。
私は、私が私である事を喜べることを、すごく幸せな事だと感じています。

「私がこう思う理由はあーでこーでなんたらかんたらギーギーギーギー!」…と猛烈にやっていた時期もありましたが、
それも全て私が私を大事すぎて、私を守るためにやっていたのでした。
それが自分を守る方法だったんですね。
エゴをもてあましていたともいえます。
エゴの取り扱い方が今とはほんとうに違っていました。

それもいい。そういう時もある。それもすっごく必要だった。
でもこっちのがも〜〜〜〜っといい!

きりんさんがすきです、でもゾウさんのほうがも〜〜っと好きです!
(↑を思い出しました。知っている人だけわかる)

今は、気になる事がでてきたら、「私だから気付けるんだ」って思うんです。

私は気になるのに、他の人はそれを見ても気にしない。気にならない。
それにイライライラ〜としていたこともあったけど、
「これって才能かも!」と気付いてからは、私も気にしてなかった時期もあったなって事思い出しました。
わざと気にしてないんじゃなくて、気にならなかった。
ただそれだけだったと。

キー!となっていたときは、そんなことを思う余裕はありませんでした。

自分の中のお部屋が広くなって、いろいろなものが見やすくなったみたいです。

今日も読んでいただいてありがとうございました。
読みづらくてごめんなさい。
(私はちょっと読みづらいです。悲)

ではでは。

 

 

 

私の世界をつくっているのは、だれ?

答え:はいはい!私です〜

こんばんは。
今日は常々シリーズですね。

さて、
Q:私の世界をつくっているのは、だれ?
A:私

この問いに対する答え。
本気です。かなりの本気です。

自分の世界を作っているのは、自分です。
あなたの世界をつくっているのは、あなたです。

たいしたことではないんです。
だけど、すごく大切なことです。

ある時、不機嫌になるとします。
その理由はさまざまですわね。

最近不機嫌になった瞬間があった人はいらっしゃいますでしょうか。
もしいらっしゃいましたら、その瞬間のことを思い出してください。

さて。

その不機嫌になったきっかけは、内側にありましたか?外側にありましたか?

おそらくですが、きっかけはほぼ、外側にあります。

でも、そのときこそ自分の思い込みに気がつくチャンス!
気がつかなくても良いわ〜て人はスルーしてくださいね。(もちろんそんな人もそれでOK)

きっかけは外側。
でもこれ、実は、「思い込みがあることを教えてくれる現実がやってきてくれた」ともいえるんです。
私は、そうとしか思えません。

それはもう些細な些細な思いこみだったりするんです。

でもそれが大きな入り口だったりします。

ほんとうの自分の…

むぅ〜ははははぁ〜〜!

…はい。

私、本気で思っています。
人は皆、自分の世界をつくる力をもっていると。

私は、本気で信じています。
人には、自分の世界をつくる力があることを。

そして私は、私の根底の力を信じています。
私の世界を作っているのは、私だ、ということを。
私は、私の世界を作る力をもっている、ということを。

人がどうだから、周りがどうだから、ではないんです。ほんとうに。

人には、自分がつくりたい世界を作れる力があります。マジで。

どれだけ言っても足りません。
私これ、おそらくずーと思っています。

だからこそ、人をみていて思うことがあります。

不満を言う人。文句を言う人。いやだいやだと言う人。

(自分の力を忘れているだけなんだな)

もうひとつ思うこと。

(やりたくてやってるんだな)

そう、とことんやりつくしたい。
振り回されているということもあるんですけどね。

私は、自分の作りたい世界に行きたいと思うなら、自分がその世界を作ればいいと思っています。

なぜなら、作れると知っているからです。
日々そのように過ごしています。

超簡単です。
不機嫌な世界を作りたければ、不機嫌であればいいんです。
ハッピーな世界をつくりたければ、ハッピーであればいいんです。

自分が作りたい世界があるなら、できますよ。ほんとうに。
ぜひ、やってみて。
ほんとうにできるから、ぜひ、やってみて。

私は、自分の力を信じているからこそ、
ひとの力も信じています。

そして、人は皆つながっているから、
自分の力を思い出した人を見ると、自分の力も思い出したくなるんです〜。

でもこれはすべて、タイミング。
ひびくタイミングは、ベストタイミングでやってきます。

自分の世界は、自分でつくっています。
自分の世界は、自分でつくれます。

私の世界。
あなたの世界。

登場人物に左右される人生ではないんです。

私の人生の主人公は、私。

私を生きることを、存分に!楽しみましょうね〜!

ではでは。

 

情報の塊りの私

今日から3連休です。

午前中お友達の家に遊びに行き、そのワンコともふもふ…。
そのあと妹と市内にあるお蕎麦を食べに行き、帰りにTSUTAYAで大好きな「孤独のグルメ」を借り、隣接するエディオンで家電を見て帰宅。

先日登場したまろ(チワワ・16歳)が現在一人で立ち上がったり歩いたりするのが難しく、排泄のために歩行をサポートする必要があるので、あまり家を空けないようにしています。

午後はお家でまったりとしました。

さて、仕事始めから5日間、毎日いろんなことがありました。

仕事でもそうでなくてもずっと「自分」なはずですが、
「仕事モード」ってありますね。

その仕事における今年のテーマは、「楽しい所に人は惹きつけられる」です。

現在、会社のホームページを制作しています。
(制作は制作会社に依頼)

現在私ともう一人の女性とで構成決めなどホームページ全般を担当していますが、ホームページ開設後、その方が退職する予定のため、運営は私がメインでやっていくことになります。そのうえでとっても大切にしたいのがこのテーマなんです。

私は今の会社で勤める前、手術室の看護師をしていました。

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じゃーん。

当時の私が感じていたことで一番印象に残っていること。
それは「社会の縮図だ」ということでした。
いろいろな人がいることを身を持って経験したのです。

私は看護師として働き始めるまで、ずっと気の合う友達や家族としか過ごしてきませんでした。
もし部活に所属していたら、上下関係がある世界を経験していたのでしょうが、それを知らずに就職。

私は覚えるのに時間がかかるし、要領も良くありませんでした。
状況に応じた準備もまだまだできませんでした。

そんな私。ミスをします。
そのときの、先輩の叱責。

それは今まで経験したことがないような状態でした。

こんな言い方をする人がいるんだ😦

「そんな言い方ないんじゃないの?」という怒りよりも、驚き。

同期の子たちも、各々先輩との関わり中で厳しく言われます。

先輩の立場でいうとしっかりした後輩を育てねばならないし、なにより命に関わる現場。
確実な判断ができるようにするための指導はもちろん必要。

しかし入るもんも入りませんでした。むしろ焦り、的確な判断ができませんでした。

同期の間にもひろがる愚痴。
しかし当時の私は人のことを悪く言うことをひどく毛嫌いしていました。

とにかく自分の中に「誰かに対する批判」が存在することを許しませんでした。
このことに関してはまさに潔癖。

ある時、同期の一人が私に言いました。

「みよこ、辛そう。もっといやだとか言ってもいいのに」

そう言われても、言えなかった私。

ほんとうは、ほんとうにいろんなことを感じていたのにね…

でもその分、エネルギーを自分の成長に生かすように生かすように使っていました。

自分自身の性質(覚えるのおそい。要領わるし。笑)がよくわかったし、そんな自分がどんな指導を受けたらが一番伸びるか、ということもすごくよくわかりました。

それがのちに、自分が指導する側になったときにとても生きました。

すべての人が伸びる指導方法ではなかったと思うけれど、その子の状況をよくみきわめて、その子が落ち着いて手術に対応できるように。それを一番大切にしていました。

いけないことをいけないと言うのはとても簡単だけれど、ただ言えばなおるかといったら違う。
私は、「心にすっとはいっていくような指導」を望んでいたんですね。

さて、今の会社に勤めて5年目に突入しました。
この会社。父親が経営する会社です。

私は母が亡くなった事がきっかけで看護師をやめ、この会社で働くようになりました。

SA®に出会うまで、私は父親と衝突し続けていました。
(正確にはSA®に出会ってからもさらに衝突は激しさをましたんだけども)

父親の存在は、私の人生と切っても切り離せないものでした。

20年間引きこもり。(父がね)
小学生のある時から、ずーと父は家にいました。

父親とその両親(おじいちゃんおばあちゃん)との長年の確執。
両者の間に挟まれる母。
たびたび起こる夫婦喧嘩。
母の苦悩・孤独・自殺未遂(準備のみで済みましたが)。

ずーと見ていてキャッチしていたのは家族のこんな姿でした。

おじいちゃんが亡くなったあとおばあちゃんが会社代表となり。

父は相変わらず会社には出ず。
おばあちゃんに狂ったように大声で罵声を電話で連日浴びせる父の姿。

岐阜をはなれて暮らしていた私は、休日に帰省しているとき、そんな姿を見ていました。

ある日電話がかかってきました。
「おばあちゃんが自殺してまったんやて」取り乱す父の声。

あのときの言葉にならない思い。

「パパのせいでおばあちゃんが死んじゃったんだ」
口にせずともずっと思っていました。

でも父はおばあちゃんが死んだことを「当然」「あるべき姿」「責任をとった」と言う。

理解不能。
噴き出る怒り。

あぁ…。暗くなってきた…苦笑

今は当時の自分から抜けてはいますが、こうして書いているとそのフィールドに引っ張られます。ひー

なにがつらいってね、これらが私の中で「絶対的事実」として存在してしまっていたこと。

私は経験したことやその時できあがった(つくりあげた)トラウマを全て「情報」ととらえています。
この「情報のかたまり」=「私」でした。
その私の中にはあんな自分やこんな自分が存在していました。

でも2014年10月、ロンドンで行われたセミナーでmomoyoさんから語られたある言葉に、私はを衝撃を受けました。

「どんな自分も、自分じゃないんです。」

「どんな自分も…」まで聞いた瞬間、そのあとに続くのは、「自分なんです」という言葉だと思っていました。

ケラケラ笑う自分も自分。
誰かを憎む自分も自分。
そう思うことは、私にとってある種の「救い」となっていたからです。

でも聞こえてきたのは

「どんな自分も、自分じゃないんです」

(心の中の私)「えっ!」

この瞬間、思考がとまりました。
そして私の中の「ほんとうの自分」がむくっと起き上がった感じでした。

やっぱり、思考がとまると明らかに居ますよ。
「ほんとうの自分」

今年の仕事のテーマ:人は楽しいところに惹きつけられる。
これを書くはずだったのになにも語れなかった…😦

SA®と出会うまでの私は、かけがえのない情報です😊
それまでの全ての私がいたから、SA®と出会い、今の私がこうしてあるからね。

だいぶはしょったし、まだまだ語り足りないけれど、
またの機会に。

ホールミヨコが、こうしてホールミヨコになっていくんだな〜。

最後に、今日のまろを。

IMG_4424

今日は久々に車椅子をつかって、歩きました!

車椅子を使って歩いたあとは、なぜかいつもよりも自力で長く立ったり、歩くことができます。
体が本来の姿勢をとりもどすんでないかな。

まーちゃん、いつもありがとう。

ではでは。

 

 

 

見ているのに 見えない

こんばんは。

仕事がはじまり3日がたちました。

仕事始めだった1月4日、休み期間とでは使うエネルギーが違うなぁとありありと感じておりました。

さて。
今日は常々シリーズなんです。

テーマ:見ているのに 見えない

この3日間、毎日めまぐるしくいろいろなことが起こりました。
それはそれはもう、とても楽しい。

ところが、このめまぐるしい出来事たち。
以前の私だったら楽しいとは思えなかったことばかり。

まぁ表面上の私はケラケラしたりカンカンしたりギャンギャンしています。
でも、全部楽しい。楽しいがとまらない。なんだろうこれは。

「エゴと宇宙をつなげて遊ぶ」

以前は思考に絡まり、思考に振り回されていました。

その思考とは、どこからきていたのでしょうか…?

以前は目の前の出来事が自分の思考をもたらしていると思っていました。

「この人が私を怒らせた」

「こんなことを言われた。だから(いやなきもちになった。怒れてきた。)」

でもある時気づきました。

自分がこういう思考になるのは、あのひとがああだから、じゃない。
自分の中に、種があるんだ。すべて。

一人の人の周りに、10人の人が取り囲んでいて、

真ん中の人への印象が皆一緒かというと、そうじゃなかったりしますよね。

Aさんは、その人をみてもなんとも思わないのに、Bさんは「あの人のこういう所がとてもいやだ、気になる」と言う。

もちろん関わりの中での印象もあるでしょう。
Bさんはその人との関わりの中でなにか違和感を感じた経験をしたのかもしれません。

でもそれは実は、どうでもいいこと。
本当に、どうでもいいことなんです。

こういうことをされたから嫌なきもちになった。
あの人がああだから、アンハッピー(=あの人がああじゃなければハッピー)

ちゃうんです。

「思い込みがあることに気づかせてくれる現実」

すべてすべてすべて、目の前に答えがあるんです。

見えているんです。ほんとうは。

でも、見えない。

見ているのに、見えない。

見えなくするのは、思考です。

その思考はどこから湧いているのか?

外、ではないんですね〜!

正確に言えば、外にあったのは、自分の思考に気づかせてくれる現実でした。

いま私は、起こることをすごく楽しんでいます。

キャッキャしたりギャンギャンしたりする、いろんなことが起こるのですが、
思いっきり思考を使ってみたり、
思いっきり思考からはなれてみたり、
自分の中の種を見つけてみたり、
見ているのに見えてなかったものを見つけたり、
めちゃくちゃ楽しんでいます。

思考に振り回されても〜〜〜むあ〜〜〜〜!!!ということはほんとうになくなりました。

おそうじポイントを見つけるのって、ほんとうに楽しいですよ!
自分の思い込みを見つけるって、本当に大好きです。

恐れから湧く思考に振り回されていた時、恐れからきていると気づいていなかった。

悲しみから湧く思考に振り回されていた時、苦しめるのは目の前のこの人だ!と信じてやまなかった。

あぁ…ほんとうに自分を思考を見てきたなぁ…

もちろん、こういう自分になれたのは、Spiritual Anatomy®のおかげです。
ほんとうに。

私はSA®と出会い、こうして自分を見てきたからこそ、人が見えるようになりました。

かつ、ポイントは「なかったものをもらった」のではなかったこと。
もともとあったものを、取り戻した、思い出したんです。

もともとあるものを思い出したから、こんなに楽しいんです。

思考が外れれば思い出す。
でも思考が自分だと信じているから、思考から外れることができない。
怖くて。
でもまさか「怖いから思考から外れられない」とは気づいておらず。
そんなときもあったな…

「その人はすべての情報をもっている」

だから、そこに思い込みを一切からませずに見ると、見えるです。(←タラちゃん風。可愛い声で)

きー!なんかすごくまとまりないけど、いっちゃえ〜〜!ポチッ(公開)

(こんな日もある〜ほほほ…

ではでは。

美陽子)

 

常々シリーズ

こんにちは。

今日は常々思っていることを書いてみます。

テーマ:死ぬことと生きること

さてみなさん、
死ぬって、どういうイメージをもっていますか?

年明け早々やだ〜ん!という方、ごめんなさい。

今日は死ぬことと生きることのお話です。

私はある時まで、死ぬことはとんでもないもので、特別なもので、未知なものでした。

逆に、生きることは、あたりまえでした。
あたりまえということばさえも浮かばないほど、生きることは自然でした。

でもある時、逆になりました。

死ぬことが当たり前になりました。

そして生きることは奇跡になりました。

お葬式に行き、遺影がお年寄りだと何もかんじないのに、
(表現するならば「まぁ、そうだわな…」という気持ち)

若いと、とたんに「若いな…」という気持ちになる。

ふと、不思議に思いました。

あれ?お年寄りになるまで生きられたことのほうが、奇跡でないか。

そこまで生きられるって、すごいこと。

そんな今日は祖母のお姉さんのお通夜でした。
97歳。

私はその遺影を見た時、涙が出そうになりました。感激で。

すごいな、そんなに長く生きられて…奇跡だね。

“It’s time to say good bye.”

死ぬことでもなんでもタイミングは完璧なので、はやいもおそいもないのですが。

死ぬことは失敗ではなく、

死ぬことは残念でもなく、

死ぬことはあたりまえで、生きてることは奇跡。

生きてる奇跡を、忘れていたけど思い出した、そんなおはなし。

わたしはこのブログを書いている今も、生きる奇跡を感じています。

ふと横を見ると、見える天使、まろ(16歳)。

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だいぶ足腰が弱り、年末に急激に体調を崩して獣医さんに3日もつかどうかと言われたまろ。

まろが生き、共に過ごしていることを、奇跡だと感じて過ごす日々が続いています。

まろだけじゃないよ。
みんなそう。

生きていることは、奇跡。

「ホールミヨコ」その名の由来

さて、ブログをはじめた理由。

それはズバリ「360度私を知ってもらうため」です。

このブログが、私そのものになるほど「360度私」であることが目的です。

だからブログ名をホールミヨコにしました。

ホールトマトと同じです。

まるごとトマト。

まるごとみよこ。

ホールミヨコ。

・・・

私は常々、私が私を好きでいることが一番幸せだと感じています。

私は私を感じるのが大好きです。

私であることを感じると…深いところで喜びが踊っているような感覚をおぼえます。

「エゴと宇宙をつなげて、エゴで遊ぶ」

そんなことを楽しんでいます。

私はイギリス在住のmomoyoさんのSpiritual Anatomy®(SA®)の公認プラクティショナーとして活動しています。

といっても、平日は会社員。
プラクティショナーとしての活動(セッション)は主に週末に行っています。

あぁ…書きたいことは山のようにありますが、やっぱりテーマごとに書いていこう。見やすく読みやすく…(ブツブツ)

とってもワクワクしています。
ワクワクが止まらない状態ですが、無理しすぎると糸が切れた凧のようにどこかに飛んでいってしまうので、しずかなワクワクを脈々とひきつれて歩みたいと思います。

ではでは。

美陽子

とうとう!

はじめまして。
美陽子です。
とうとうブログをはじめることにしました。

2016年1月1日

ブログ「ホールミヨコ」スタートです。

よろしくお願いします。

ブログの更新や仕組みに慣れていないのでワタワタしておりますが、
文章作成途中のプレビューを見るたびに「…!ブログっぽい!」とほくそ笑む美陽子です。

少しずつ慣れていこうと思います。

ではでは。

美陽子